東大の例の記事

最初の人のコメントスゲーいいこと書いてるな。ちょっとメモしとくわ。

このコラムは、筆者の基礎理解と教授能力に問題がある事を自ら告白したもの
ではないか。

大学に入っても、いや、専門領域に踏み込んだからこそ、必要とされる知識や
技術の量は更に増大する。高校で学んだ言語能力(英語・国語等)や歴史認識
(世界史・日本史等)ですらその通りで、法体系(法哲学・各基本法の解釈等)
や各領域固有のシステム論(例:工学部・理学部等の各学科)に踏み込めば尚
更である。筆者がこのコラムで学生批判に使用した講義は1年の夏学期(1学
期)、6月の全学部向けのものである。状況に即した「パターンのない所からの
解答」を作成する能力は当然必要で、それは中学・高校の授業や社会生活の中
でも養成されなければならないが(それが学校では特に軽視されている点は筆
者に同調する)、個々の局面でより有益かつ効果的な対処策を見出すための多
様な手法、及びその基盤となる諸事項や概念の理解と修得もまだ重要な時期で
あり、「クリエイティビティー」の欠如をもって「人生の失敗」と断じるには
まだ早すぎる。

このような点で、講義の位置付けに対する筆者の認識は根源から「ずれている」
と言わざるを得ない。筆者は「作曲」という芸術分野の背景を持ち、そこでは
「感性」や「独創性」がより重要という点は十分考慮すべきであるが、「東京
大学」と「東京芸術大学」では自ずと違った特性を持つ教授法が必要であり、
このコラムはその部分を軽視した結果、的外れの批判となっている。

もう一つ、筆者は受講学生の多くが持つ「過剰適用」傾向を批判しているが、
その講義は課題への解決策である「自己成長型の理解促進」をむしろ阻害して
いる。確かにかつては講師の一言一句を書き留め、板書を模写する受講が一般
的だったが、それは聖典のような暗誦へと行き着くのが目的ではなく、習熟済
みの概念や哲学と対照しながら自らに新知識として定着させるための必要工程
だった。現在は講義で伝達可能な情報量が格段に増加し、音声や映像まで駆使
できるようになったが、だからこそ「完成された自らの『作品』に異論は挟ま
せない」という姿勢を採りやすくなる。そのセットに依存し、学生に対して早
口でまくし立てる形式を採るとすれば、そこから得られる知識や思考はむしろ
前世紀よりも質量共に低下する。講義で伝えなければならない情報や概念が高
度で複雑であるからこそ、その教授法には細心の注意が必要である。

その陥穽に対する自省を回避して、定式化された「受験勉強は出来るお子さん」
が犯す「理解不足」に対する攻撃へと走り、自らの配下であるティーチング・
アシスタントの学生達を深みのない批判へと誘導するのは、彼(女)等の今後
の研究・教育姿勢にも害を及ぼすであろう。その上、更に商業ベースのコラム
に仕立てて広く世に問うというのは、「何とトーダイまで合格しちゃったンだ
もんねボク」という、自らの講義に出席して自発的に疑問を提起してきた学生
に対する最低限の敬意を全く持ち合わせない嘲笑と合わせ、高等教育従事者と
いう職業への適性を疑わせるには十分である。

I like the above comment.